《弘前ねぷた囃子の歴史》
ねぷた囃子の様子が分かる最も古い記録は、天明8(1788)年の『奥民図彙』の「子ムタ祭之図」にある「大小火ヲ燈シ笛太鼓ニテハヤシ夜行ヲス声甚カマヒスシ」です[1]。ここから笛と太鼓が用いられていたことが分かりますが、図には表れていないため、笛が縦笛なのか横笛なのかは不明です。また、文久年間に描かれた『津軽年中風俗画巻』の「祢婦太の図」からは、巴の太鼓、小太鼓、放(長笛)、鈴、手木ぎ、ジャック(鉄板を何枚かつけたもの)などの楽器がついていることが分かります[2]。ここでは、現在用いられている横笛は見られません。
藩政時代の笛の基本的な旋律やリズムは、今のものとよく似ていたと考えられています。これは、津軽神楽や各地の獅子踊の中に、ねぷたの旋律、リズムと基本的に類似するものがあるためであり、ねぷたの囃子が演奏されるようになった当初、庶民にとって身近だった獅子踊の音楽が転用されたと考えられます。
明治期のねぷた囃子は「行進」と「休み」の2種類のみでした。これは、同じ道を通らなかったために、「戻る」という感覚がなかったためであるとされています[3]。松山定之助によれば、明治末期になると、なぬか日には「なぬか日の囃子」が演奏されるようになったそうです[4]。
大正3(1914)年に合同運行が行われるようになったことで、警察署前で解散したのち、自分の町内に戻ることになりました。その頃から、「戻りの囃子」が登場したものと考えられています。これにより、「なぬか日の囃子」は廃れていったようです[5]。
大正8(1919)年に寄附を貰うのはなぬか日に一日だけとなり、これにより、なぬか日にはねぷたの幹部が、ねぷたを担がずに他の町内に寄附を貰い歩くようになりました[6]。このために、「休み」の囃子を演奏する機会は運行中の停止のときだけとなり、今日のねぷた運行では、あまり聞かれなくなりました[7]。
昭和40(1965)年、戻りの囃子が、弘前の代表的な笛吹きたちによって18節に整えられました。
平成8(1996)年7月1日には、弘前ねぷた囃子が「日本の音風景百選」に認定されました。
《譜例》
弘前ねぷたの囃子を五線譜に採譜したものを以下に示します。
弘前ねぷたの囃子に関しては、団体ごとに細かなヴァリエーションがあるものの、正調囃子として定型化されています。現在演奏されている囃子は、行進の囃子、休みの囃子、戻りの囃子であり、このうち、行進の囃子については、石田光男[8]、笹森建英[9]によって笛の旋律が五線譜に採譜されており、両者の譜例に特段の差異はないため、譜例1としてここに示します。
太鼓については五線譜に表されたものはないため、筆者が採譜したものを譜例2として示します。(♪=強く、×=弱く、◎=特に強く)
行進の囃子にのみ鉦が用いられることがあるが、鉦を用いない団体もあります。
休みの囃子については筆者が採譜したものを、笛の旋律を譜例3、太鼓のリズムを譜例4としてここに示します。なお、装飾音は各団体によって入れ方が異なるため省略し、太鼓を打つ強さに関しては譜例2と同様とします。
戻りの囃子については筆者が採譜したものを、笛の旋律を譜例5、太鼓のリズムを譜例6としてここに示します。装飾音と太鼓の強さは同上とします。
[1] ADEAC:デジタルアーカイブス 弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典「新編弘前市史 通史編3(近世2)第5章 弘前城下と都市市民 第三節 祭礼と娯楽 二 ねぷた運行」 (最終閲覧日2020/12/10)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0220205100/0220205100100030/ht010470/
[2] 『重要無形民俗文化財 弘前ねぷた囃子楽譜集』p.2
[3] 『ねぷた祭り 明治・大正・昭和』p221
[4] 『ねぷた祭り 明治・大正・昭和』p.220、『重要無形民俗文化財 弘前ねぷた囃子楽譜集』p.2
[5] 『ねぷた祭り 明治・大正・昭和』pp.220-222
[6] 同上p.223
[7] 『ねぷた祭り 明治・大正・昭和』p.223、『重要無形民俗文化財 弘前ねぷた囃子楽譜集』p.2
[9] 『新編弘前市史 通史編5(近・現代2)』p.901
コメントを残す